31歳、病室で「青春」にときめく理由を考えた夜
はじめに
突然だが、私はいま病室にいる。
命に関わるほどの大病ではないが、手術が必要になり、数日前にそれを終えた。体調は落ち着いていて痛みもほとんどない。だが、病院の外には出られない。時間だけが、ゆっくりと余っていく。
入院中の時間は不思議である。
日常で押し流していた“とりとめのない考え”が、静かに浮かび上がってくる。スマホを置いて天井を眺めていると、脳内に置き去りにしていた問いが、順番待ちをしていたかのように出てくる。
そんな時間のなかで、今日ずっと考えていたことがひとつある。
どうして私は、いくつになっても「青春」という言葉にときめいてしまうのか。
30代前半。もう立派に大人のはずである。
それでも、映画のキャッチコピーに「青春」と入っているだけで、つい目が止まる。「青春◯◯」という煽り文句に、いまだに“尊さ”を感じてしまう。
それは懐古趣味なのか。年齢への焦りなのか。
あるいは、もう少し違う何かなのか。
今日はその正体を、病室の静けさのなかで、ゆっくりたどってみる。
「音」が鳴った瞬間、現実が少し遠くなる
たとえば『時をかける少女』。細田守監督のアニメ映画。
あの作品の空気には、いまでも胸がきゅっとなる瞬間がある。“青春の匂い”とでも言いたくなる透明感がある。
あるいは、当時よく聴いていた音楽。
中高生の頃、学校で流行っていたsupercellや初音ミク。世代の人なら、一度は通ったはずだ。YouTubeのおすすめに、リメイクやリバイバルがふいに上がってくることがある。
そして、音が鳴った瞬間に——
いまいる現実が、少し遠くなる。
あれは何なのか。
目の前の病室はそのままなのに、空気だけが一瞬、別の年代に切り替わる。走馬灯のように記憶が駆け巡り、体温だけが当時に戻っていく感じがする。
今日は、その「遠くなる感じ」の正体を探していた。
青春の記憶は「出来事」ではなく「温度」
青春を思い出すとき、出来事の細部は案外覚えていない。
テストで何点を取ったとか、何を勉強していたとか、そういう情報は驚くほど曖昧だ。
その代わりに残っているのは、温度だ。
夏の夕方の光が、やけにオレンジだったこと。
制服が汗ばんで肌に張り付く“気持ち悪さ”と、同時に少しの爽快感があったこと。
教室の窓から入ってくる風が、ぬるいのに心地よかったこと。
埃っぽい教室の匂い。放課後の廊下の空気。
青春は、出来事のアルバムではない。
私の中では、「空気感のフォルダ」として保存されている。
そして映画や音楽は、そのフォルダを開くためのショートカット。
再生ボタンを押せば、当時の空気がふわっと戻ってくる。
だから私は、何度でも「青春」に触れたくなるのかもしれない。
ときめきの理由①:あの頃は、すべてが“初めて”だった
青春の時代は、いろんなことが初めてだった。
初めて誰かの目が気になった。
初めて将来が怖くなった。
初めて、自分ではどうしようもないことで落ち込んだ。
いま思えば小さなことでも、当時の自分にはとてつもなく大きかった。「これがダメなら自分は終わりだ」と、本気で思ってしまうほどである。
初めての感情は輪郭がくっきりしている。
嬉しい、悲しい、悔しい。混ざっていない色。原色のまま、身体に染み込んでくる。
大人になると、感情は絵の具のように混ざっていく。
嬉しいけど不安。やりたいけど怖い。楽しいけど忙しい。
いつの間にか、単色では感じられなくなる。
だからこそ当時の作品や音楽に触れて、“混ざっていない感情”の気配を思い出すと、心がざわざわして、ときめいてしまうのだろう。
懐かしさだけではない。
「当時の自分は、こんなにまっすぐ感じていたのか」という驚きがそこにある。
ときめきの理由②:青春には、余白があった
青春の象徴は、実は“キラキラ”ではなく、余白なのではないかと私は思う。
放課後、目的もなく歩く時間。
コンビニで何を買うでもなく迷っている時間。
部活が終わって家に帰るまでの無駄話と沈黙。
あれは人生の中でもトップクラスに贅沢な空白である。
大人になると、その余白は極端に減っていく。
予定、締め切り、効率。
AIがどうこう、タイパがどうこう。
やること一つ一つに意味を持たせる空気が漂い、意味のない時間を持っていることが、どこか後ろめたくすらなる。
意味のあることをやっているはずなのに、ふと満たされない日があるのは、“意味のない時間”が足りないからかもしれない。
映画や音楽であの頃に触れると呼吸が楽になるのは、心が「あの余白」を思い出しているサインなのだろう。
ときめきの理由③:青春は、戻れない
そして当然だが、青春は戻れない。
当時は当時で悩んでいたはずだ。
受験どうしよう。将来どうしよう。思い通りにならない。焦りも不安もあった。
それでも今思い出すと、苦しさよりも明るい部分が先に出てくる。思い出補正と言われればそれまでかもしれない。だが、それだけではない気がする。
私たちが青春に触れたくなるのは、「戻りたい」からというより、自分の中に確かにあった“光”を確認したいからではないか。
「ああ、自分にもこういうキラキラした時間があった」
その事実を思い出すと、今の自分が少しだけ救われる。
だから映画や音楽は、懐かしさを売る装置というより、「あなたの中の光はまだあります」と教えてくれる装置なのかもしれない。
大人の青春は「年齢」ではなく「心の温度」かもしれない
たまに「大人の青春」という言葉を聞く。
正直、うらやましい。自分にとっての“大人の青春”をはっきり言える人はすごいと思う。
私はまだ、明確には言えない。
だが考えてみて、ひとつだけ輪郭が出てきたものがある。
大人の青春は、年齢の問題ではなく、心の温度の問題なのではないか。
何かに夢中になっているときの温度。
誰かと笑っているときの温度。
ひとりで散歩していて、「こんなところにこんな綺麗な景色があったのか」と気づいたときの温度。
風の匂いに、ふっと心がほどける瞬間の温度。
それは大きなイベントでなくても起きる。
特殊な趣味を始めて仲間を作って——という派手なことだけが青春ではない。
小さくても心がぽっと上がる出来事を、ちゃんと感じ取れること。
それが、大人の青春の作り方なのかもしれない。
おわりに
こうして病室で考えていると、自分の心の余白や心の温度が、いま何を欲しがっているのかが少しだけ見えてくる。
もしこの記事を読んで、昔好きだった曲を聴きたくなったなら、それで十分。
当時のことを思い出して少しだけ呼吸が楽になるなら、それはきっと、今のあなたに必要な温度なのだ。
今日はこの辺で終える。
眠る前の人は、よく眠れるように。
作業中の人は、あと少し、いい時間が続くように。
それではまた。

